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『第三世界の長井』 物語としての『第三世界の長井』


この物語はフィクションである

「物語」の世界

 『第三世界の長井』は物語についての物語である。
 劇中で特に信頼性が高いと思われる人物、音那・帽子の少年・カンジの言葉を順に引用しよう。

  • (伊藤の存在について)「…全くのイレギュラーだ。 / そのせいで物語にずれが生じたみたい。」[2-14]
  • (長井と出会った時に)「…やっぱり偶然じゃねえ。 / 俺ももうこの物語に組みこまれちまってる…」[2-30]
  • 「軽易に言うなら宇宙人達はあるいは… / … / (…)物語のキャストなのかもしれません。」[2-99]

 彼らは長井を中心として起こる異様な事象を「物語」と呼ぶ。
 いわば劇中劇のように、『第三世界の長井』ではまず帽子の少年らが正常と感じる大きな世界があって、その中にEアンカーによって発生した異常な一連の「物語」が存在するのだ。その物語には当然「キャスト」(登場人物)がおり、長井や帽子の少年もその一人である。

 Eアンカーが発生させた「物語」があるなら、その物語の主人公は誰になるのか。言わずもがな「主人公」とEアンカーに書かれた人物であり、「設定12 主人公のビジュアル」[1-68]の絵と同一の姿をした(させられた)長井がそれにあたるだろう。
 Eアンカーの設定は初めから「主人公」などと書いてあり、つまり「物語の設定」の体裁をしている事にも注目したい。長井の物語は最初の段階から「物語」として定義されているのだ。

 Eアンカーの存在を理解している帽子の少年達は、長井を中心にした「物語」を文字通り誰かの書いた物語を読むような客観性で見ている。

  • 「まあバトルもので宇宙人とされる存在も現われたというのに、肝心の主人公の武器が石では… / そんな戦闘シーン逆に怖い。」[1-89]
  • 「けどあの長井がスーパーヒーローって… / あれほど動かなくてどうにもならないキャラいないってのに…」[1-89]

 作中では2度目の会議の席、「設定117 主人公はスーパーヒーローに改造される」[1-89]が明らかになった時の会話である。この時カンジは少年の見聞といくつかの設定から「物語」を「バトルもの」の物語と評価し、戦いを「戦闘シーン」とまで呼んでいる。帽子の少年も長井を「動かないキャラ」(主に漫画用語で「能動的に行動しない」といった意味)と評している。
 ただし長井を中心とした物語は、我々が一般的に思う「物語」とはやや異なる(分かりやすい言葉で言えば)一種の不条理劇だ。物語にあるべき一貫したストーリーも見出せず(物語が進むにつれ「バトルもの」になりつつあるが)、物語の中心人物である博士と長井の会話は「なんなんだ、このつじつまさえ合ってない無理やりなテクストは…」[1-45]と評されているように、意味のないやりとりのあげく用意されたかのような結論に唐突に達する。
 「テクスト」とは(しばしば『第三世界の長井』で引き合いに出される)言語学・記号論上では、単なる文章という以上の「意味」をもつたとえば物語・詩・論、そういったものを言う。長井を中心とした「物語」においては、テクストイコール長井らの言動、またテクスト=起こる事象(宇宙人と戦ったり雷が落ちたりなど)、テクスト=それら全てを統合した一連の日々、と読み替えていいだろう。その意味で、確かにこのテクストは壊れている。

 こうして見ればうるるが持つ特殊な世界観も、基本的にこの「物語」構造に従属している事が分かるだろう。

「この世界は… / 一つの物語なの。」[2-120]
「そしていつの時代にも世界のどこかに物語の主人公…神の祝福者がいたの。 / 世界はその瞬間その者のためにある、それ以外の人間は背景かせいぜい脇役でしかないのよ。 / そして… / うるるにはわかるの… / 長井こそが今、この世界という物語の主人公なのよっ。 / 現在がどうであろうと未来に無限の可能性を持ってるのよっ。」[2-121]

 作品中では帽子の少年とうるるとが(文字通りに)並び立っており、むしろ読者にとってはうるるの方が多くの情報をもたらしているため、「どちらが信用に足るのか」という疑問をよぶかもしれないが、実は二人の視点は別次元にある。帽子の少年が「物語」と呼ぶ箱庭状の世界がうるるにとっての全「世界」なのだ。二者の世界観は対立しているのではなく、「入れ子」の内と外の問題なのである。
 うるるの言う「神」が、帽子の少年と同一なのかはまだ明言しうる時期ではないだろうが、それをさておいてもこの「物語」の構造を前提にすればうるるの精神性が理解しやすいのではないだろうか。

 ここまで見た中で、Eアンカーが「物語」の形式をもつ必然性は本質的には薄いと言えるだろう。その意図は将来的に明らかにされるのかもしれないし、または単なる作劇上のガジェットに過ぎないのかもしれない。しかし演出上の視点からは、虚構に侵食される現実という『第三世界の長井』のテーマ(のひとつ)を効果的に表現するために「物語中物語」の手法がとられていると考えることもできるだろう。
 この「物語」が現実を侵食する実際の流れを追ってみよう。まず帽子の少年がEアンカーの発現を知った当初、この「物語」は小規模で彼らの現実に深い影響を及ぼさないと見られていた節がある。実際、最初の会議の席では「しかしなぜ… / こんなアンカーに何の意味があるんでしょう。」[1-60]「マジでバカバカしすぎてこんなのがEアンカーだったなんて思わなかったし…」[1-62]と、その無意味性に意図を計りかねている様子ばかりがうかがえる。彼(ら)が初めてその影響の大きさに気付くのは、爆破星人戦になってからである。
 爆破星人登場時、「ちょ…マジで火薬とか使ってんの?」[1-96]と帽子の少年はあくまで「火薬」という現実的な感覚で対応している。その後「どこまでほんとか知らねえけど」[1-102]と思っていた長井の変身を見て「な… / に…これ…」[1-107]「マジで… / こんな…」[1-108]とあっけにとられ、爆破星人がヘリを破壊しビルに墜落させるに至り驚愕の表情[1-115,116]「な… / なんなんだよこれ… / あいつマジでヤベエ奴じゃねえか…」[1-117]と呟いている。この時まで彼は「物語」がこれほどの大事故(よくて重傷者多数、悪ければ死者も多く出ただろう)を起こせる規模だと想像していなかったのだ。
 そしてその物語は周囲を取り込んで拡大し続け、帽子の少年をも「物語」のキャスト(登場人物)として否応なしに巻き込んでいる(「長井…なんであいつ… / あいつと会う気なんてないのに…」[1-125])。
 ラーメン星人戦では「物語」のために物理法則はいとも簡単にねじ曲げられ[2-51]、ついに火山噴火星人によって遥か遠くのメキシコの火山が噴火するに至る[2-94]。ここに及び「物語」と世界の境界ははなはだ曖昧になっている。
 衝撃星人との戦いにおいて、長井の父の映像は「我が子長井よ、お前は生きねばならん。 / お前は世界そのものなのだーっ。」[2-135]と叫んでいる。これが正しければ、「物語」はいまや現実と同義になり、物語=現実の「主人公」である長井は本当に世界の運命を託されてしまう。これこそが「虚構とリアルのフォリ・ア・ドゥ」(第2話タイトル[1-35]感応精神病フォリ・ア・ドゥはある1人の精神病症状が周囲の人物にも影響を及ぼす症状)であり、『第三世界の長井』という「物語についての物語」の恐怖なのだ。
 第1話の最後に、帽子の少年は音那の思惑を測りかねてある言葉を黙想する。作品全体の暗示めいた表現で語られるその言葉とは「一体… / どこまでが本当なんだ?である[1-34]

『第三世界の長井』におけるメタ

 広義に〈物語が物語について言及する構造〉をメタ物語とよぶ。その意味で前述のように『第三世界の長井』は既にメタ物語である。
 これと似て、物語が「読者と物語自身の関係」に言及する手法がメタフィクションであり、たとえば漫画なら主人公が「次のページで何かが起こる」と言えば(本来主人公が意識しているはずのない、読者の世界に属する「ページ」に言及することは)それがメタフィクションの表現である。演劇用語から転じて、「第四の壁を破る」とも表現される。
 漫画では多くの場合他愛のないギャグとして使われる表現であるし、『第三世界の長井』でも多くはそのように扱われる。たとえば博士は頭のトゲについて「こんなトゲ好きで付けるかよでも無いとたぶんタツノコ方面から大変な事が起きるまあ俺の知ったこっちゃないけど」[1-24]と語った。それは博士の顔のデザインがタツノコプロ作品『科学忍者隊ガッチャマン』に登場する南部考三郎博士に酷似しており、トゲ等のオリジナルな記号がなければ権利問題に発展しかねないことを博士自身が語るというギャグ表現である。より詳しく言えば、我々の住む現実世界の権利問題について、それを関知しないはずの漫画のキャラクターである博士が言及するナンセンスさがギャグになっていると言える。
 しかし、このコマで読者は別の問題にも気付くだろう。博士の長ゼリフはフキダシからはみ出し、コマを乗り越えついにページの端まで伸びてしまう。これ自体も漫画のフォーマットを逆手に取ったギャグ表現だが、以降のコマの帽子の少年の反応には奇妙なものがある。呆然とした表情で無言のコマ、そして「な…何? / …何今の。」と困惑した様子を見せる[1-24]。それはここまでに見られた呆れた表情や冷静な指摘(ツッコミ)とは別で、初めて長井や博士といった〈異常〉を目にした時の驚愕と同種である。
 帽子の少年が長ゼリフや無意味なセリフにここまで驚くとは思えない。少年はこの時、セリフがフキダシからはみ出した事に気付いているか、または博士が漫画の外の現実世界に言及した事を理解している。あるいはその両方かもしれない。

 これを前提として考えると、帽子の少年と彼以外とには奇妙な反応のギャップがある事に気付かされる。それは長井の父親ジャックダニエルの登場時である。
 衝撃星人との戦闘で倒れた長井の前に、ジャックは三度目の登場を果たし、目線と法に抵触する恐れ云々の無駄な会話をする[2-134,135](これ自体もメタフィクションの手法だが、ここでは関係ない)。この直後、うるるは約2ページにわたるジャックと長井の会話と全く無関係に「ちょっと、いつまでへばってるの。」と割って入るのだ[2-135-3コマ目]
 うるるがジャックを目にするのは初めて(のはず)であり、その実写的な姿に(それを無視しても映像が中空に現われて会話することに)何のリアクションもないのは不自然である。それでなくともジャックと会話する長井を「へばってる」とだけ見なすのは奇妙な事だ。ならばうるるの目にジャックという実在の人物の写真は見えていないのではないか。衝撃星人もまた、うるるが割って入った事には「…ってあれ?」と驚く[2-135-4コマ目]が、その前に長々と現われていたジャックに注意を払う様子が無い。ジャック自身は彼の発した衝撃でうるるもろとも吹き飛んでいる[2-135-5コマ目]にも関わらずである。

 これ以前にもジャックの登場には奇妙な点がある。最初の登場時からして、ジャックは雑踏の中で現われたことが明白だが[1-144]、この異常事態に対して周囲が興味を示す描写がひとつとして無いのだ。その直前、クッ付カセル星人の登場には誰もが関心を寄せ[1-139]、帽子の少年が「こんなとこで変身したら正体ばれるじゃねえか。」[1-147]と心配するような場面だというのにである。
 帽子の少年はまた他の登場人物と違い、初めて見たジャックの姿に激しい衝撃を受けてもいる。その3つのコマは無言だが、目と口を一杯に見開き背景には(漫符として)効果線やスクリーントーンの「マーブル」が描かれている[1-142,143,144]。それらは衝撃や困惑を示す記号だ。
 ジャックが実在の人物の写真として描写されるのは、一般的な漫画表現ならメタフィクションのギャグ、または「通常の画法では描写できないほどの異常性」を示す表現手法だと言えるだろう。しかしジャックが登場する場面の描写からは、基本的にこの漫画の登場人物には〈実在の人物の写真〉というメタフィクショナルな物体は見えず、長井と帽子の少年にのみ見える、特に帽子の少年には〈実在の人物の写真〉というメタフィクションとして見えているという解釈が導かれるのだ。

 これと全く同様の現象は、長井が興奮すると(?)背後に現われるイデのゲージ(Google検索結果参照)にも見られる。物語中に最初にゲージが現われたのはクッ付カセル星人登場時で[1-136]、長井の(女子との会話のチャンスを宇宙人に潰された苦悶の)心象風景を表わす抽象的な背景画かのように描かれている。この時、長井の友人らは「…何の話?」「さあ。」[1-137]とあくまで長井の意味不明な発言(「(…)なんでガールが張飛に迫る時この俺にはなんかクッ付カセルが来るという。(…)」[1-136])に対する疑問しか表わしていない。
 その後もイデのゲージ出現はオタ丸らには全く無視されているが[2-78,86]、劇中4度目の登場時にふいに帽子の少年が「…何が起きてんの? これ。」[2-116]と疑問を口にしている。ここでもやはり異常に気が付いたのは帽子の少年である(うるるはイデのゲージ出現の直後吹き出していて[2-79]、帽子の少年もそれに対して「こいつ…」[2-79]と怪訝な表情をみせており、あるいはうるるもゲージの存在に気が付いているのかもしれない。もっとも単に扱いやすい長井という男を嗤っただけかもしれないというただし書きは付く)。

 これらから浮かぶ疑惑は、彼ら一部の登場人物は漫画表現を現実として知覚できるのではないか、という事であり、さらに展開するならば、自分が漫画の登場人物だと知っているのではないか、という事である。

 これはあくまで疑惑である。ここまでに挙げたのはいわば状況証拠であって、結論として言い切れるものではない。
 仮に漫画のキャラクターだと帽子の少年が自覚しているとして、そんな彼が神を自称するのは僭越にすぎ、理屈に合わないだろうか。あるいはそれも自身を漫画の一部と理解した上での自虐的な表現だったろうか。またたとえ事実であったとして、それが物語でどのような意味を持つのかも読者にとってはまだ未知である。
 ここでは結論を急がず、表現の違和感とそこから類推される疑惑という段階にとどめておきたい。

批評的作品としての『第三世界の長井』

 メタ物語、そして第四の壁を破る(こともある)物語である『第三世界の長井』は、当然の帰結として我々の現実世界との関連を疑わせる。
 真っ先に気が付くのは主人公の名前「長井」が作者のペンネームの姓「ながい」と同音である事だ(作者の過去作『チャッピーとゆかいな下僕ども』あとがき[ラポート株式会社, p.191]の署名が長井 建」であることも注意したい)。
 長井は物語という世界の中心でありながら虚ろで愚かな、自分一人では何もできない存在として描かれる。これを作者「ながい」にあてはめるなら、漫画家として物語を作る立場にありながら力及ばず無力感に苛まれる作家ながいけん、というストーリーが読み取れるだろう。
 責任を負おうとしない一方で何かと文句をつける「神」=お客様の読者、音那=「大人」の都合で望まない形に書き換えられる物語、これらも創作の苦悩を表わすメタファーと解釈できる。現に作者は前作『神聖モテモテ王国』を未完のまま何年もの間断筆しており、その経緯は明らかにされていないのだ。
 一見して辻褄が合っており飛びつきたくなる結論だが、ここではそれに与しない。なぜなら『第三世界の長井』に限らずメタ物語、そして世界を改編する物語とはその性質上、作家のメタファーという解釈があまりにも容易すぎいかようにも解釈できてしまうからだ。

 たとえば別の解釈がある。一般的なメタファーとして作者を「神」と言い換えるのは珍しくない。全てを(しかし不十分な技倆で)書き換える力を持った神=帽子の少年=作者が、音那=編集者が集めてきた要望を叶えていくうちに物語は「信じられないレベルでグダグダに」なっていく。物語の主人公「長井」の落書きじみた姿はそのまま前作の主人公「ファーザー」の姿のセルフリメイクと言えるだろう。帽子の少年が世界を放り出したように、作者は筆を折り『神聖モテモテ王国』は休載となった。そうした歪んだ自伝的物語として解釈することもできるだろう。
 あるいは音那を作者の投影ととらえることもできる。誰にも理解されない作者=音那が、編集部=神=帽子の少年の意向に反抗し、思い通りに完成しない物語=長井達に苦労しながら、不器用ながら物語世界を壊し創造する。そんな生みの苦しみの比喩と解釈することも可能だ。
 宇宙人、博士、うるる、彼ら主要キャラクターも、同業者、批評家、読者など比喩的な役割を解釈に応じて好きに与えられるだろう。

 むろんこうしたメタファーとしての解釈を誰も否定はできない。
 しかし物語が作者の創造物であり、現在も連載が続き作者がそれらに言及しないなら(それがあからさまな告白であるか作中のほのめかしに留まるかの違いはあっても)、無数の解釈は少なくとも「一読者の自由な解釈」の域を出るものではないだろう。
 「長井」の名を意味もなく主人公に与えるとは考えにくいという点に立ち返っても、そこに作者のメタファーという批評的意図があるどうかはまた別の問題である。たとえばメタファーを抜きにして、物語の「長井」と現実の「ながいけん」が交錯するような展開の予測も現時点で不可能ではあるまい。あるいは単に意味のない名前(「長井」が仮に「田中」であってもこの物語は成立するだろう)に無難あるいは投げやりに作者の名を付けた、それだけの意図しかないのかもしれない。
 つまるところ批評的作品としての『第三世界の長井』の定義は、今はまだ議論の対象にはなっても結論は留保されるべきなのだ。


コラム:メタファーの甘い罠

 上記のように、『第三世界の長井』を作者・作品のメタファーとしてとらえるのはたやすく、それだけに「誤りに飛びつく」危険性も大きい。帽子の少年が象徴するのは作者なのか、読者なのか、それとも編集部なのか? もし本当に『第三世界の長井』がメタファーを使った批評的作品だとすれば、このうち少なくとも二つの解釈は誤りになるのだ。
 「音那ねな」という奇妙な名前、それを帽子の少年だけが「おとな」と読む意味、「おんな」と読み替える事も可能な文字、これらがいかにも比喩表現の材料になりそうな一方で、作者はまだ(作品内でも作品外でも)何の説明もしていないし、手がかりと呼べる手がかりすら見せていない。

 それでも構わないと言えば構わないだろう。読者の解釈は自由であるべきだし、そもそもこのサイト自体がそうしたものだ。
 たとえば帽子の少年が「ショウ」という名を捨てた[2-158]一事は、いかにも「年サンデー」「学館」「年誌」を彷彿とさせ、作者が週刊少年サンデーでの『神聖モテモテ王国』の連載を中断し、長い休筆期間の後にゲッサン誌で『第三世界の長井』執筆を開始した事と結びつけたい誘惑にかられるかもしれない。
 しかし性急であってはいけない。「ショウ」という名前の「帽子を被った」「少年誌」を象徴する存在と言えば、最もそれに近いのは週刊少年チャンピオン誌のシンボルキャラクター「ショウちゃん(またはショウチャン)」であるからだ。このままでは帽子の少年が少年チャンピオン誌や秋田書店を象徴してしまう。誰の目にもそれはおかしいだろう。

引用:施川ユウキ『サナギさん(1)』背表紙, 秋田書店, 2006

 私が『第三世界の長井』の批評的解釈から距離を置こうとする理由のひとつは、こうして厳然たる事実にせっかくの解釈をだいなしにされることを恐れるからである。


何が「第三世界」なのか?

 『第三世界の長井』とは奇妙なタイトルではないだろうか。
 先進資本主義諸国(第一世界)、社会主義諸国(第二世界)に対し,発展途上諸国を指すのが広義の「第三世界」だ。一般にはアジア、アフリカ、ラテンアメリカ圏がそうだが、むろんこの第三世界諸国と『第三世界の長井』の関連は薄い。唯一メキシコとそのポポカテペトル山が登場しているが、今後長井がメキシコに赴く展開があるのだろうか?
 そう字義通りに考えるよりは、何らかの言葉遊びだと捉えた方が据わりは良さそうだ。
 (ここからは根拠に欠ける、とりとめのない推測に過ぎないことに注意されたい)

 たとえば「第三世界」という言葉自体が、「第三身分」の転でもある。聖職者(第一身分)・貴族(第二身分)に次ぐ平民がその「第三身分」であり、フランス革命においては従属からの革命者の役割を果たした。そこから転じて「第三世界」という言葉は革新の可能性を持つ発展途上国を示すことがある。
 長井はその存在ごと「神」や音那に隷属する状態にあるが、彼が物語の主人公となって世界を革新するとすれば、それは「第三身分」の姿に近しい。比喩としての「第三世界の長井」は文字通りの意味をもつことになるだろう。

 あるいは入れ子状の物語構造を指しているのかもしれない。ここまでに書いた通り『第三世界の長井』はメタ的に複数の世界観を扱っている。

  1. 長井を中心とした新しい「物語」の世界
  2. 帽子の少年らが現実と認識する正常な世界
  3. 我々読者が読む『第三世界の長井』という漫画
  4. 我々読者が存在する現実

 (C)(D)については疑わしくもあるが、最低でも(A)(B)は明白に物語中で語られているものであり、これら複数の世界観を「第一世界」「第二世界」とカウントして疑問はないだろう。「第三世界」にあたるのがどの世界観なのか、あるいはまだ読者に明かされていない部分なのか(長井と博士が住むという研究所すら、いまだに作中に登場していないのだ)は分からないが。

 もっと具体的な(そしてメタ的な)視点からは、『第三世界の長井』が作者の『チャッピーとゆかいな下僕ども』『神聖モテモテ王国』に続く、「第三の作品」であることが見て取れるだろう。
 『チャッピーとゆかいな下僕ども』は短編集であって一作と見なしがたいかもしれないが、収録作は全て『ファンロード』(雑誌)掲載作であり短編連作の体を示してもいる。事実『解散の辞』(同『大増補版』に収録)において各短編の登場人物が一同に会しており、この短編集を一編の長編に収束させるこころみが行なわれている。
 また『第三世界の長井』には『神聖モテモテ王国』のキャラクターが数コマ登場していることも忘れてはならない。ここに『チャッピーとゆかいな下僕ども』の登場人物が合わさるなら、たしかに『第三世界の長井』は「第三の世界(の登場人物)」の物語と言えるだろう。