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『第三世界の長井』 メッセージ


埋もれたメッセージ

落書きの文字

 読者はいくつかの場面で、奇妙な壁の落書きを目にした記憶があるだろう。
引用:ながいけん『第三世界の長井(2)』p.20, 小学館, 2013
 確認できた限りで、壁の落書きは3種類ある。

  • 「逃げんなよ」[1-6](初めて長井の様子を確かめに向かう帽子の少年の横に)
  • 「真実の一部」[1-58](飛ビ跳ネサセ星人が去って行った後、帽子の少年の背後に)
  • 無数の「死」の文字とゼンマイの絵[2-20](長い髪の少女の顔がうるるに変化した後、挿入された風景)

 「真実の一部」は極端に小さく描かれているので見落としがちな部分だ(小さすぎて判読しにくくもある。「事実の一部」かもしれない)。
引用:ながいけん『第三世界の長井(1)』p.58, 小学館, 2013
 一般的な漫画表現でもストーリーや登場人物の心情に、風景や文字列を象徴的に関連付ける手法はよく見られるが、ここで描かれた三つは単なる演出表現には留まらないようだ。
 この「真実の一部」と書かれた壁は3コマ前[1-58]にも(それ以外にも何度も[1-43,54,58等])描かれているが、落書きが書かれているのは唯一このコマだけである。問題のコマより壁が大きく描かれているコマもあり、作画上の描き込みの省略ではありえない。つまり、このコマで唐突に壁に文字が出現したと捉えるのが自然なのだ。
 うるるの変化に伴ってその特徴である「ぜんまい」の図が(実際のぜんまいの登場に先じて)挿入された事も、これら落書きが超常的な存在だと示している。

 これは何者からの言葉で、何を言わんとしているのか? それに答えられるほどのサンプル数も登場人物の反応も現時点では無いが、幾つかの仮説を示そう。

 落書きは常に帽子の少年に向けられたメッセージとして機能している(かのように見える)。長井との邂逅に重い腰を上げたとき「逃げんなよ」と落書きは言い[1-6]「何なんだこれは…」と考えているその背後には「真実の一部」と書かれ[1-58]、長井を中心に起こる異常に「こんなんじゃこの先…」と思い遣った直後にゼンマイと「死」の落書きが挿入される[2-20]。まるで少年の心情に反応して、一種のアドバイスあるいは挑発をしているようだ。
 だとするなら、最初の可能性としてこの落書きの発信者は音那と考えても不自然ではあるまい。第一に落書きのある場面すべてに音那は登場している。そしてうるるという存在の発生にも彼女が関わっているとも思しい。彼女が壁に落書きの形でメッセージを映す程度の能力を持っていたとしても不思議ではないだろう。
 音那を別にするなら、落書きを発信した存在は、少年のまだ知らないうるるの出現を予言し、逃避しようとする心理をつき、少年の知らない「真実」をすら知っているかのようにふるまう人物である。伊藤純一はそれにあたるかもしれない。普段行動の制限されている彼が、唯一許されたコミュニケーション手段がこの落書きだったとしても驚くには及ぶまい。
 それら以外に、この人物の万能性を満たす存在を探すとすればそれは「作者・ながいけん」ではないか。
 それが突飛にすぎるとすれば、別の視点として落書きの発信者は本人──つまり帽子の少年の無意識が落書きの形で発露したと考える事はできるだろうか。自分に対して「逃げんなよ」と言い聞かせるのはもちろんだが他の二つも、自分の「何なんだこれは…」という疑問に(理性的に否定しかけている)回答を文章化し、あるいはまだ知り得ない未来(うるる)を無意識的に知覚し表現している、とすれば不自然ではない。

 あるいは、落書きが帽子の少年に対するメッセージに見える、その事自体がフェイクなのかもしれない。「逃げんなよ」という文章は、後にクッ付カセル星人戦時に帽子の少年が発した言葉でもある(変身のため姿を隠す長井に対して「逃げんなよ?」[1-147])。すなわち、一連の落書きは(メッセージに見せかけ)巧妙に隠されたセリフの引用であり、一種の予言だと読み変える事もできよう。ゼンマイの絵と「死」の文字が後に登場するうるるを指しているのは既に指摘したが、この散りばめられた文字の中には「う〜」「死ね」とかろうじて読めるものが紛れている。これより後、衝撃星人が登場した時の第一声は「う〰〰〰」であった[2-127]。一方「死ね」という言葉はこれより以前にしか登場しない(「くっ付くからなんなんだって流れの中で死ねボンクラ。」[1-137]「この世から死ね。」[1-153]など)。
 「真実の一部」という言葉は本編にはまだ登場していない。それこそ将来的に、誰かのセリフとして「真実の一部」という言葉が発せられるのかもしれない。

飛び立つ鳩

 『第三世界の長井』では時おり〈突然飛び立つ鳩の群れ〉が描写される。
 それぞれ違う場所(土地)で羽毛の色味も数も異なるが、「バサバサバサ」と音を立てて飛んで行くこの鳩(おそらく鳩)の群れを描いたコマは唐突に何の説明もなく挿入される。ジョン・グレン監督やジョン・ウー監督の例を出すまでもなく、映像表現や漫画の文法で言えば劇的効果としてさほど珍しくもない表現だが、その数は現在三回。長編漫画二巻の間に三度同じ演出表現が使われるというのは、いささかやりすぎの感がある。
 しかし、これを単なる紋切り型と考えるのは早計だろう。というのも、この鳩の描写にはある法則性が見出せるからだ。

  • 博士の初登場シーンで、博士の姿が顕わになると[1-18]
  • 伊藤純一の初登場シーンで、伊藤の去り際に[2-15]
  • うるるの初登場シーンで、うるるが目覚めると[2-77]

 これらが鳩の群れの飛び立つコマが挿入されたシーンである。意図的に「長井と関係の深い人物の初登場時」という決まったタイミングで描かれているのはこの三例から明らかだろう。それを裏付けるように、別種のタイミングの劇的表現には鳩以外の表現がわざわざ用いられている。「宇宙人の初登場」である飛ビ跳ネサセ星人の出現には、電柱に掛けられていた「おもちゃのみせ チャイルズランド」の看板が突然に傾いていて[1-48](留め具が音を立てて飛び散っており経年劣化とは考えにくい)、そこに鳩は現われない。
 では、この法則性はどんな意味を持っているのか? 壁の落書きとは違って、ここに登場人物の意志を見出すのは難しい。メッセージとしては他の登場人物に何も伝わっていないからだ。そこで考えるべきは「この法則性が何を示すか」ではなく「なぜ世界はこの法則に従っているのか」だろう。大げさな言い方ではあるが、なにしろ鳩は例外なく〈長井と関係の深い人物の初登場時に飛び立っている〉のだ。常識的に言って鳩にこのような習性が無い以上、この物語世界の独特な法則性と考えるほかにないだろう。

 『第三世界の長井』における「世界」に特徴的なのは、長井とその周辺のEアンカーによる異常を「物語」と称する事であろう(詳細は前項参照)。そこでは「バトルもの」であったり「主人公」であったり[1-89]、物語の典型的な類型に沿って世界が定義される。本来の意味での「物語」に劇的な演出効果はつきものだが、では帽子の少年らが箱庭的に観測する「物語」にもやはり演出効果が発生するのではないだろうか? その演出効果とは、つまり〈飛び立つ鳩〉である。
 読者がよく知るように、この長井らの「物語」は現実をいびつに改編したものに過ぎない。ならばその中では演出効果もやはり物語の法則(あるいは「設定」かもしれない)に支配されていて、決まりきった紋切り型の効果ばかりが発生するのではないか。これが〈劇的効果が法則的・定型的に使われる〉という鳩のシーンの異常性に対するひとつの仮説である。
 いささか大胆な解釈になってしまったので公平を期して言えば、この鳩の法則性は劇的効果をマンネリ的に使うというギャグ表現としても機能していることは付記しておく。

ジェノテクスト

 見逃されがちだがきわめて異質な表現がある。
 クッ付カセル星人が必殺技を使えなくなり警官達から逃走した[1-155]後、ひとつのナレーションが入る。

「こうして… / 地球に真の平和が来た。」[1-156]

 もちろんクッ付カセル星人ひとりの敗北で「真の平和」が来るはずもなく、それどころかこの直後には警官から銃を奪ったクッ付カセル星人の反撃が始まる[2-21]のだが、そういった事に配慮せずこのナレーションではまるで一区切りがついたかのように表現されている。
 単純に考えれば、客観的な態度を装った嘘、大げさすぎる形容というギャグ表現だろう。しかしこの作品中ではナレーションは基本的に「その時」[1-80]「二分後。」[1-84]といった純粋な客観表現か、「頭脳戦」[1-53]「敵も浮いたー!!」[1-117]といったギャグの強調効果として扱われている。ナレーション単体がギャグ表現を、それも事実と異なる内容を扱うのはこれが唯一の例外なのだ。
 第一、(主観的な感想となるかもしれないが)ギャグ表現としては効果的でない事が不可解である。〈クッ付カセル星人のささやかな退場劇を、全ての結末であるかのように大げさに語る〉というギャグ自体、その前に長井が使い終わっているのだ(「博士…並びに亡き父上… 終わったよ…」[1-156])。そしてそれを一旦置いて帽子の少年が深刻に「だけど… / やっぱあれって(クッ付カセル星人の必殺技を)俺が止めちまったのかな…」[1-156]と後悔あるいは訝しむシーンを挟んでから、件のナレーションが入るのだが、これも順序として不自然と言えるだろう。いわゆるギャグパートとシリアスパートが交互に入り混じってしまっている。

 そこで次のページに目を移そう。(クッ付カセル星人の退場劇に)訳が分からないという風なオタ丸ら学生たち、そこに一陣の強風が巻き起こる。帽子の少年を含め彼らは不意の風に体勢を崩され、驚き不審がる中で帽子の少年は何かの異常に気が付く。「…待てよ? / 今の… / …なんだ? ただのジェノテクストじゃねえ。こんな半端なのは…」[1-157,158] そして案の定、音那が現われる……という展開である。
 普通に読み通すなら、帽子の少年が突風から音那の存在に気付いたととれる場面だろう。だが、少年は「風」そのものには言及せず「…待てよ? / 今の…」としか言っていない。ここで前項に書いた、彼らが漫画表現を現実として知覚できるのではないかという疑惑が再び浮上してくる。
 もしも帽子の少年が漫画表現を知覚して──あのナレーションを読んでいたとするならどうだろう。「こうして… / 地球に真の平和が来た。」[1-156]「…待てよ? / 今の… / …なんだ? ただのジェノテクストじゃねえ。こんな半端なのは…」[1-157,158] ここではジェノテクストイコールナレーションである。まさしく半端な異常を持つナレーションだったのは既に書いた通りだ。
 「ジェノテクスト」は本来記号学に属する用語だが、この作品ではしばしば衒学趣味的に専門用語による言い換えが使われる。そこできわめて大雑把な喩えにとどめるが、ジェノテクストはフェノテクストと対になる概念で、〈起こる現象、発せられるテクスト〉がフェノテクストだとすればジェノテクストは〈フェノテクスト化する以前のまだ目に見えない深層〉である。心理学の「無意識」に似たものと考えれば捉えやすいだろう。
 フェノテクスト的に実体とセリフを持つ帽子の少年ら登場人物に対し、基本的に彼らの目にふれないナレーションをジェノテクストと称するのは直喩としてそれなりに説得力があるだろう(もっとも、これは厳密な本義から離れた時点でいかようにも曲解できるものであり、こうした見解じたい意味を持たないかもしれない)。

 もしナレーションが(この作品における)「ジェノテクスト」であり、それを帽子の少年が知覚していたとするなら、これは物語構造の秘密を堂々と描いていながら読者にそれを悟らせない、巧妙な伏線でありミスディレクションであると言えるだろう。


コラム:キリスト看板の謎

 飛ビ跳ネサセ星人戦時、彼らの馬鹿げた戦いに閉口する帽子の少年は傍らに貼られた「ただ信ぜよ イエス・キリスト」の看板に気付く[1-53]
 これは現実に存在する、聖書配布協力会による俗に言う「キリスト看板」で、文面「ただ信ぜよ イエス・キリスト」自体も実在する意匠である。
 見たままに言うならば、これも〈壁の落書き〉と同様に帽子の少年(「俺もうやだよこんなの… / こんなの… / あいつ等になんて言えば…」[1-53])へのメッセージが「ただ信ぜよ」だったという事だろう。とは言え、壁の落書きとまったく同様の存在なのか、そこに疑問の余地はある(くり返すがこれは現実でも普通に道端にある看板なのだ)。

 なぜ作者はここに限って落書きではなく、実在する看板という形態を選んだのか? むろん神を自称する[2-32]少年と我々読者もよく知る神キリストの対比という面もあるだろうが、それなら落書きで「信じろ/神」等と書かれれば済む事でもあるはずだ。
 落書きと看板、二者の違いは、その文面が作者ながいけんのオリジナルか、それとも引用かにある。引用とはこの場合(聖書配布協力会による)聖書からの抜粋であり、膨大な文の連なりからなる聖書では一つの看板、一つの文章が、付随する多くの情報にひも付けられていると言える。作者の狙いはそこ──短い一文から長い情報を引き出させる事にあったのではないか。
 この看板の原典であろう新約聖書の『マルコによる福音書』にはこうある。

会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」
(中略)
イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」
イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。
(中略)
イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。[マルコによる福音書 5章22-42節(新共同訳)]

※他に新約聖書『ルカによる福音書』8章にも同様の記述がある。

 このエピソードとうるるが初登場する場面には、奇妙な共通性がないだろうか。
 聖書の物語ではまずイエスに人づてにヤイロの娘の存在と死が知らされる。それからイエスは三人の弟子とともに娘の元に向かい、そこで娘は初めて死体として姿を見せる。そしてイエスが娘に「起きなさい」と呼びかけると目を醒ますのだ。
 『第三世界の長井』では、長井に張飛が謎の死体の存在を告げる[2-75]。長井が向かった先で三人の「俺が面倒見てる若いの[2-75]」(オタ丸、関羽、張飛)が揃ったとき、死体であった彼女が目を覚まし、長井が「うるる こんにちは。」と声をかける[2-77]。この一連の展開は聖書のエピソードと相似形にあると言えるだろう。
 つまり、帽子の少年が目にしたキリスト看板はうるるの登場を示した予言であり、だからこそ帽子の少年もことさら目にとめたのではないか?

 私自身、なかなかよくできた符合でありひどい曲解だと思っている。